体育会系、嫌いです

ちぴっと風邪気味のワタナベです。

 

最近急に涼しくなってきて、そのせいか我が家の2人の大将は風邪気味、僕も奥さんも彼らの咳の直撃を受けてヤバいです。

 

さてさて、僕はギターが大好きです。高校から20年くらいギターを弾いています。なのに信じられないくらいギタリストを知りません。あと、いわゆるギターの理論も知りません。自分でもこんなに知らなくてもいいのかな?と不安になりますが、ギターを弾くうえではほぼ問題ありません。なので、別にいいじゃん?とか思うのです。

 

でも世の中には色々なギタリストがいて、それこそあのバンドのギタリストは誰で、使用しているギターは何年製のもので、テクニックはこれを使っているとか、とにかく詳しい人がいます。

 

昨日何気にYouTubeでcharというギタリストの番組を観ました。この人、ギタークソうまい

んです。あと、ギターについても詳しい。ギタリストのことも詳しいし、とにかくギタリストっていうギタリストです。

 

でも、めんど臭い匂いが満載☆

 

なんかもう敷居が高すぎてめんどくせえっす。

 

例えば一緒にセッションしようとかってなった時、マウンティングしてくる感じ。俺の方がうまいぜ!俺の方が沢山引き出しあるぜ!俺の方が詳しいぜ!って無駄に勝負してくる感じ。

 

め、めんどくせぇっ!

 

絶対話合わないなって思いました。

 

ギターやっている人にも文系と体育会系ってあると思います。なんていうか、その人のノリっていうか、雰囲気っていうか。

 

charって思いきり体育会系です。昔の武勇伝を恥ずかしげもなく話しちゃうみたいなおっさん。僕の価値観だと、ダセっていう感じです。

 

僕は影響受けてませんが、鮎川誠って人がいます。シーナ&ロケッツで有名なあの人です。この人のインタビューをYouTubeで観ましたが、全然charと違いました。純粋な音楽少年がギター弾いて歳をとったって雰囲気でカッコ良かったです。この人のギターは早弾きするとかそういう訳ではないけど、すごかったです。でも多分僕とセッションした時に同じ目線でやってくれそうでした。それは、合わせてる曲に1番合ったプレイをしようって考えてるからだと思います。自分がどれだけできるかじゃなくて、どれだけその曲の雰囲気に溶け込めるかみたいなイメージです。だから、そこに上手い下手とか、詳しいとか詳しくないとかそういう優劣は存在しないのです。

 

何が言いたいかっていうと、どんな分野でも僕は体育会系のやつとは合わないなってことです。

餅は餅屋

飲み会の帰りのワタナベです。

 

毎日通勤電車の混み具合に、イカれてるっていう感情を抱いています。こんなにストレス溜まる乗り物に乗って毎日通勤しているみなさんはイカれてますね。僕を含めてお疲れ様です。

 

さて、会社でお客さん相手に仕事をしていると、仕事内容に干渉してくる人に出会います。

 

「こうしたらどうですか?」みたいなことを無駄に提案してきます。要は自分の思うやり方で案件をすすめてほしいわけです。

 

かましいわっ!って思います。

 

僕に仕事を頼んだ以上、僕のやり方ですすめたいのです。そしてそれが仕事を依頼するということであると思います。つまり仕事を依頼した時点でその責任を手放すわけで、そこに意見すべきではないのです。

 

先日、僕が手配した案件のスケジュールに対して、お客さんが下請け会社に直接連絡してスケジュールを変更したことがありました。

 

なにしてんの?って話です。

 

そういう人は人のことを信用してない奴です。なんでも自分のやり方が正解で、それにそぐわないのは駄目だって思ってるんです。1度僕に(僕の会社)に依頼した以上、その手配に対して干渉するのは明らかなビジネス上のルール違反です。それに、そういうことをされたらどんな気持ちがするか想像できないのでしょう。

 

利益を求めるのは構いませんが、それが信用を踏みにじっても良いことにはなりません。 

 

ある分野に関して詳しい業者であれば、そこに仕事を依頼した以上は口出しするべきではないと思います。なぜならその業者のやり方が一番理にかなっているに決まっているからです。自分のやり方でやりたいのであれば最初から自分で手配すべきなのです。

 

何が言いたかっていうと、「人の仕事に口出ししてくるやつはムカつく」ってことです。

 

そんなことをしているヒマがあったら、もう少しセンスのよい服装と髪型を調べたりした方がいいですよって言いかけて、「おっと、僕は会社員だったな」と思って思いとどまりました。

 

餅は餅屋って言葉、大賛成です。

「偉い人」に嫌われる

どうも、どうもどうも。イモトことワタナベです。

 

日に日に秋らしくなって気持ちがいいです。僕は四季の中で秋が1番好きなので、今の季節は最高です。仕事以外何をしていても気分がEです。

 

さて、僕は昔から「偉い人」に嫌われる性格です。正確には、「偉そうにしている人」に嫌われる性格と言っていいでしょう。

 

うちの会社は1か月に1回親会社の役員を交えた管理者会議が本社で開かれます。その時に来る親会社の役員のおっさんが嫌いで嫌いで仕方ないです。とにかく偉そうです。やたらデカイ声で話すし、態度がデカイし、うちの会社の社長にもタメ口です(これはいいか)。マジで死んでくんねーかなとか本気で思います。そしてそんな気持ちが多分態度に出てしまっているのでしょうが、僕は相手に嫌われている自信があります。だって向こうの僕に対する態度がそんな感じなのです。

 

思い返してみると、今までの人生で偉そうにしている人から好かれた経験はまったくありません。学生時代の野球部の先輩とか、大学の教授とか、最初に入社した会社の上司とか、とにかく偉そうにしている人からは嫌われる傾向があるようです。だから、僕はいつもそういう集団の中で「上」の方に昇ることはできません。僕の目で分析したところ、集団で「上」に行ける人は実力がある人というよりは、そういう人を「たてる」ことができる能力に長けているようです。そして偉そうにしている人はほぼ例外なく自分を「たてて」くれる人が大好きです。自己分析すると、僕にはそういう能力は皆無に近いと思います。なので、この先も「上」に昇ることはできないと思います。

 

でも大丈夫!(吉高由里子風)

 

というより、僕はそういう役職とか、付き合いとか本気でめんど臭いと思っているタイプの人間なのでむしろそれを楽しんでいます。つまり、ある意味自由奔放に振る舞えて最高なのです。

 

もともと僕自身の素質や考え方が組織で働くのにはそぐわないのです。だから、組織の「偉い人」は僕のそういう雰囲気を疎ましく思うのでしょう。ごめんちゃい☆

 

この先も「偉い人」に嫌われ続けてみようと思います。それをつきつめてみて、どうなるのかを実験してみます。

 

僕の心の根っこは高校の時にミッシェル・ガン・エレファントに出会った時に、そして大学の時にストーン・ローゼズにのめり込んだ時に決定しました。彼らは決して誰かに媚びたりしませんでした。魂を売るくらいなら死んだ方がマシだぜ!とか今でも本気で思ってます。

 

お、なんかカッコいいな。

 

そこじゃねぇ

こんばんわんこそばのワタナベです。

 

最近チューハイにハマってます。うちの奥さんが氷結のストロングにハマっていて、その流れで影響されました。ただ、今日はセブンイレブンのレモンチューハイにします。財布に優しいからです。

 

突然ですが、「そこじゃねぇ」ってことを気にする人が嫌です。

 

仕事柄、役所と関わることが多く、役所の会合みたいなのに出席することが多々あります。そんな時、ここぞとばかりに役所の人に質問する同業者を見かけます。でもその質問の内容が‥

 

「そこじゃねぇ」

 

ってくらいくだらないんです。そんなこと質問して何になるの??って突っ込みたくなるのを我慢してやり過ごします。でもおそらくその人は真剣に聞いているのでしょう。

 

しかし、僕はそういう人に嫌悪感を抱きます。

 

なぜなら、個人的な知識欲を満たすために他人の時間を無駄にしているとしか思えないからです。その人が質問すると、いつも会合の時間が長引きます。そういう人は他人の時間を自分が消費していることが分かりません。時間は有償だという感覚が無いのです。

 

そして、何よりも僕にはその人が本質を理解しようとしているとは思えないのです。

 

書類を作成する時に100点の書類ができるまで突き詰める人がいます。それと似ています。そういう人は本当は70点で大丈夫の書類を完璧にするため、どうでもいいことを煮詰めるのです。例えばどこのスペルが違うとか、小数点の切り上げ方が違うとか、そういう「あんた以外誰が気にすんの?」って箇所を半永久的に煮詰めるのです。僕はそれを見ていつも思います。そこじゃねぇ。

 

日本人って真面目過ぎます。仕事の全ての部分に完璧を求め過ぎです。肝心な部分をおさえていれば、スペルミスとか、小数点がどうだとか、どうでも良いと思います。要は本質をしっかりと理解してるかってことです。自分の人生の大切な時間を「そこじゃねぇ」ってレベルの部分を煮詰めるのに費やすなんて馬鹿げてます。

 

そもそも、物事を全て理解することなんて不可能ですし、全てを理解するために無駄なことを煮詰めるなんて、それをすることで全てを理解できるっていう傲慢な考えです。

 

だから、そういう人はもう永遠に1人で文字のスペースの位置とかを気にしていて欲しくて、僕に関わって欲しくないのです。その人が100点の書類を1つ作る間に、70点の書類を100個くらい作ってやろうと思います。

 

言い過ぎました。10個にしときます。

 

 

奇跡はいつでもすぐ横に

秋らしくなってきて、食べすぎのワタナベです。

 

ギターが売れたので今月中にもエピフォンのカジノを入手する予定です。あー、楽しみです!

 

さて、ギターのことを書いたので、それにまつまわる驚きのエピソードを書こうと思います。

 

先日、近くのショッピングセンター内の楽器屋さんにギターの下見に行った時のことです。目当てのギターが無かったので、店員さんに問い合わせしました。そしたら、なんとその店の副店長さんが、僕の昔のバンド仲間だったのです!まあ、ここまで読んで「あるある」って皆さん思ったでしょう。

 

ではいきます。まず、

1  バンドをやめてしばらく連絡をとっていなかった彼とばったり会ったこと

2  彼がそのショッピングセンターのある地域に引っ越して住んでいたこと(僕の住んでいる地域)

に驚きました。まだ、「あるある」って思ってますね?

 

次、いきます。

3  最近、僕はまたバンドをしてみたくて、仲間を探していた

4  新しいギターを買うことを考え、立ち寄った楽器屋さんに彼が務めていた

まだ「あー、偶然ってすごいよね」って程度に思っていますね?

 

実は最近僕はちょっと人生に関する実験をしていました。どんな実験かというと、「今までしてこなかったこと・選んでこなかったこと・したことがないこと、をする」というものです。

例えば小さなことだと、会社の最寄駅のひとつ前の駅で降りて通勤してみるみたいなことです。

 

なぜこの実験をしているのかというと、いつものローテーションを意図的に崩すことによって、人生に変化を与えてみようと思ったからです。

 

前から考えていたんですが、人生って大きな流れに乗って進んでいて、その流れに逆らわなければ割と楽しくうまいこといくようになってるんじゃないの?って思います。

 

だから、現状のやり方でうまくいかなかったり、嫌なことがあったりとかするのは、そもそも僕の今のやり方がその流れに沿ってないんじゃないかって思ったんです。それが、先に述べた違ったことをしてみることを始めた理由です。

 

さて、話は少し戻って「今までしてこなかったこと・選んでこなかったこと・したことがないこと、をする」ことの1つとして僕は大切にしていたギターを売りました。以前の僕は弾いていなくても手放せなかったのですが、思い切って売りにだしたのです。(某アプリを使って売りました)

 

すると、どうでしょう。ギターは決して安い値段ではなく、またキズもあったにもかかわらず楽器屋さんに売るよりはるかに高い値段で売れました。しかも、短期間で。そして、資金を手にした僕が楽器屋さんに行ったところ、元バンドメンバーの彼と再会したのです。

 

僕は「あれ?仕組まれてる?」と思いました。それに対してとても驚いたのです。誰が仕組んでいるのかは分かりません。運命の流れを司る人がいて、それを神様っていう人もいるし、宇宙意志とか色々な呼び名で呼ばれてると思います。僕個人は無宗教ですし、スピリチュアルなことに詳しいわけではありません。

 

僕が思うのは、人生というのは正しい流れの手順を踏めば、いわゆる奇跡はわりと頻繁に起こるのではないかなってことです。つまり、流れに逆らわないで正しいタイミングで物事をすれば正しい流れに乗れて、その先には奇跡というご褒美が待ち受けているのです。このやり方で合ってますよっていうひとつの指針みたいなもんです。

 

そして、今回の実験を通して自分の希望に沿った流れに乗れました。すごい驚きだと思いませんか?僕は意図的に奇跡を起こしたって言っても言い過ぎじゃないです。いや、言い過ぎか。いや、そんなことないな。

 

自分がやりたいことは、正しいやり方・正しいタイミングで行うことで現実になるっぽいです。この実験はこれからも続けてみます。もっと確信に変わるまで試してみるつもりです。

 

ちなみに昨日は奥さんの誕生日でした。予約のケーキを取りに行くのに車ではなく自転車で行ってみました。すると帰りに仲良しの友達家族と会えました。

 

違うことをすると、やはり面白いことが起きるみたいです。

理不尽な怒り

やっと金曜日ですね。ワタナベです。

 

エピフォンのカジノというギターを買うつもりです。ビートルズやオアシスが使用しています。すごくカッコいいです。早く買いたいです。

 

さて、僕は日々自分の中の理不尽な怒りと闘っています。普通の人なら、おそらく腹を立てないだろうことなのに、僕にとってはどうしても許せない。他人が聞いたら「正気ですか?」って感じの怒りです。自分でも変だと思ってます。でもイラつくのです。

 

どんなことに怒りをおぼえるのか、ランキング形式でどうぞ。

 

第5位  前を歩く遅い人

僕は歩くスピードが人よりかなり速いです。だからか、こういう人が前を歩いているとイライラします。

 

第4位  口を押さえないで咳をする人

汚いです。あと、風邪うつされたら嫌です。マスクせんかい。

 

第3位  物を壊したり傷つけた時(自分の責任)

自分の不注意さ、雑さが許せません。ひたすら自分に腹を立てる不毛な怒りです。

 

第2位  電車(バス)で座れない時

なんででしょうね?座っている人は1ミリも悪くないのに僕はこう思ってます。

「はよどかいかい」

 

第1位  雨

栄えある第1位は、まさに究極の理不尽な怒りです。そう、僕は天気にキレるのです。例えば自転車で帰宅中とか、洗濯干して出かけたとき

とかに雨が降ってくるとマジで正気とは思えないくらいキレてます。(一応心の中で)

 

こう書きだしてみたら、自分でも思ってましたが、ヤバめですね。僕っておかしいんでしょうか?

 

多分僕は人生の大部分を自分の思うようにコントロールしたい・コントロールできるって無意識に思ってるんでしょうね。だから、自分の意にそぐわないことに遭遇した時にものすごくストレスを感じてしまい、それを怒ることで他の誰か(何か)に転嫁しているんでしょう。

 

どうやら僕に必要なのは物事をフラットに受け入れることかもしれません。今自分の目の前で起こっていることはそれ以上でも以下でもないことで、そこに自分の意思が介入する余地など無いのです。

 

これを「腑に落ちて」理解できたら、今よりももっと生きやすくなる気がします。

父親でもワガママ言いたい

ワワワのワタナベです。

 

昨日健康診断がありまして、その結果を今から

少し心配したりしてます。去年は便潜血がありました。心配のあまり大腸検査をしたところ軽い痔でした。今回は何がでることやら。

 

さて、僕は最近目指す父親像を間違っていたことに気づきました。それはこの間のブログに書きましたが、ほぼ同時期に僕の父親としてのあり方に対する考え方が変わりました。

 

僕は父親はワガママを言ってはならないと思ってました。しかし、僕は父親である以前にワガママで自分勝手な1人の人間であることを認識したのです。そしてそれは「我慢することをやめる」ことの始まりでもありました。

 

今まで僕が我慢していたこと。

 

1人でギターを弾くこと。食べたいものを食べること。子どもの言うことを聞かないこと。自分が子どもや奥さんに対して抱いている負の感情を伝えること。

 

一言で言えば、ワガママに振る舞うことです。

 

最初に書きましたが、もともと僕は非常にワガママで自分勝手な人間です。それなのに、子どもが生まれると同時にそんな自分を抑えつけ、「理想の父親像」に向かって進んでしまったのです。今思えば、その歪みは至るところででていた気がします。例えば子どもにつらく当たってしまったり、奥さんのことを必要以上に強くけなしてしまったり。すべては本当の自分を抑えつけたために生じた感情の歪みだったのです。

 

だから、僕は良い父親でいることをやめました。ハッキリ言って、マイナスの自己肯定です。自分の負の部分を認め、それを抑えることなく解放することにしたのです。

 

先日、スシローで長男が嘔吐しました。彼は体調が悪かったにもかかわらず、寿司を食べたそうです。この時僕は食べたかった寿司を全然食べれてませんでした。今までの僕だったら、仕方ないこととして、自分の感情に蓋をして長男を気遣っていました。いや、「気遣うフリ」をしてました。でも、もともと僕はそういう人間じゃないのです。だから、今回は思い切り不機嫌になりました。きっと長男は怖かったと思います。奥さんにも気を遣わせてしまったと思います。でも、僕にはこれが必要でした。だって寿司食べたかったんだもん!食べたいだけ食べたかったのに長男が吐いたから帰らなきゃならなくなったんだもん!これが僕の本音なのです。本音に嘘をついて長男を気遣う方が、僕にとっては邪悪なことに思えます。

 

僕のこの態度のせいで、長男はしょんぼりしてました。可愛そうだと思いました。でも、僕はワガママを言いたかったんです。それが道徳的に良いとか悪いとかは関係なく、自分の気持ちを言いたかったのです。

 

僕はずっとこの社会的にとか、道徳的にとかいう判断基準に従って行動していました。ワガママな自分の本音はこの基準に照らし合わせると落第してしまうため、無理矢理自分を抑えつけていたのです。

 

でも、それはやめにします。自分の本音が正しいか正しくないかなんて、誰かに決められる筋合いは無いのです。自分が感じることに理由なんてないのです。

 

ワガママな自分を解放したその日、長男に以前より素直に謝れました。自分の負の部分でも認めてあげると、それによって傷つけてしまった大切な存在に気づくことができます。彼や奥さんにとってはしんどいと思いますが、しばらくこれを続けてみるつもりです。父親だってワガママが言いたいのです。そうしないと自分でいられなくなってしまうのです。

 

僕の好きなイギリスのロックバンド、オアシスの曲にこんな歌詞があります。

 

I need to be myself

I can't be no one else

 

ワガママでも自分勝手でもいいじゃない!