父親でもワガママ言いたい
ワワワのワタナベです。
昨日健康診断がありまして、その結果を今から
少し心配したりしてます。去年は便潜血がありました。心配のあまり大腸検査をしたところ軽い痔でした。今回は何がでることやら。
さて、僕は最近目指す父親像を間違っていたことに気づきました。それはこの間のブログに書きましたが、ほぼ同時期に僕の父親としてのあり方に対する考え方が変わりました。
僕は父親はワガママを言ってはならないと思ってました。しかし、僕は父親である以前にワガママで自分勝手な1人の人間であることを認識したのです。そしてそれは「我慢することをやめる」ことの始まりでもありました。
今まで僕が我慢していたこと。
1人でギターを弾くこと。食べたいものを食べること。子どもの言うことを聞かないこと。自分が子どもや奥さんに対して抱いている負の感情を伝えること。
一言で言えば、ワガママに振る舞うことです。
最初に書きましたが、もともと僕は非常にワガママで自分勝手な人間です。それなのに、子どもが生まれると同時にそんな自分を抑えつけ、「理想の父親像」に向かって進んでしまったのです。今思えば、その歪みは至るところででていた気がします。例えば子どもにつらく当たってしまったり、奥さんのことを必要以上に強くけなしてしまったり。すべては本当の自分を抑えつけたために生じた感情の歪みだったのです。
だから、僕は良い父親でいることをやめました。ハッキリ言って、マイナスの自己肯定です。自分の負の部分を認め、それを抑えることなく解放することにしたのです。
先日、スシローで長男が嘔吐しました。彼は体調が悪かったにもかかわらず、寿司を食べたそうです。この時僕は食べたかった寿司を全然食べれてませんでした。今までの僕だったら、仕方ないこととして、自分の感情に蓋をして長男を気遣っていました。いや、「気遣うフリ」をしてました。でも、もともと僕はそういう人間じゃないのです。だから、今回は思い切り不機嫌になりました。きっと長男は怖かったと思います。奥さんにも気を遣わせてしまったと思います。でも、僕にはこれが必要でした。だって寿司食べたかったんだもん!食べたいだけ食べたかったのに長男が吐いたから帰らなきゃならなくなったんだもん!これが僕の本音なのです。本音に嘘をついて長男を気遣う方が、僕にとっては邪悪なことに思えます。
僕のこの態度のせいで、長男はしょんぼりしてました。可愛そうだと思いました。でも、僕はワガママを言いたかったんです。それが道徳的に良いとか悪いとかは関係なく、自分の気持ちを言いたかったのです。
僕はずっとこの社会的にとか、道徳的にとかいう判断基準に従って行動していました。ワガママな自分の本音はこの基準に照らし合わせると落第してしまうため、無理矢理自分を抑えつけていたのです。
でも、それはやめにします。自分の本音が正しいか正しくないかなんて、誰かに決められる筋合いは無いのです。自分が感じることに理由なんてないのです。
ワガママな自分を解放したその日、長男に以前より素直に謝れました。自分の負の部分でも認めてあげると、それによって傷つけてしまった大切な存在に気づくことができます。彼や奥さんにとってはしんどいと思いますが、しばらくこれを続けてみるつもりです。父親だってワガママが言いたいのです。そうしないと自分でいられなくなってしまうのです。
僕の好きなイギリスのロックバンド、オアシスの曲にこんな歌詞があります。
I need to be myself
I can't be no one else
ワガママでも自分勝手でもいいじゃない!