声がデカイヤツ、嫌いです

今日は少し早く帰れるのでウキウキしているワタナベです。奥さんから連絡があり、今夜の晩ご飯はチーズダッカルビだそうです。楽しみでヨダレがでます。

 

突然ですが、声がデカイヤツ、嫌いです。あれ、なんなんでしょうか?うちの会社にも何人かそういう輩がいます。ハッキリ言って馬鹿みたいに見えます。声がデカイと、こちらの意思とは関係なく会話の内容が耳に入ってきてしまいます。ウザいです。

 

僕が分析した声がデカイヤツは以下のパターンがあります。

 

1  完全に馬鹿で声がデカイ。

これはもう救いようがないです。もともとの性質だからです。

 

2  自分の実力を誇示しようとして声がデカイ。

これは情けない男のパターンです。要するに威張りたいがためにデカイ声で威圧するようなタイプ。人間としてゴミ以下です。

 

3  空気が読めなすぎで声がデカイ。

空気が読めないこと自体は別にいいのですが、声がデカイことがイラつくのです。

 

とにかく総合的に声がデカイヤツは僕の経験上ロクなヤツがいません。じゃあ僕はどうかと言うと、3番の気がちょっとあります。だから、嫌われる人からは嫌われている可能性があります。でもいつもではないのでセーフです。セーフということにしたいです。

 

声がデカイおっさんにはなりたくないというのが今日のブログの内容の発端です。

いつだって現役

家が大好きすぎるので帰りの電車はマジでテンション高いワタナベです。

 

今回音源を作ることを決意した時に、誰に聴いてほしいかということを意識しました。

 

僕や奥さんのような、パパやママに聴いて欲しい!

 

そう強く感じました。

 

僕も奥さんも、学生のころ夢を追いかけていました。僕はバンドで成功すること、彼女は映画で成功すること。残念ながらその夢は20代のころには叶いませんでした。そして結婚して子どもが生まれると、僕たちは周りから「夢を追いかけることから離脱した人」とみなされるようになりました。ハッキリとそう言われたわけではありませんが、例えば友人との会話の中でそういうクリエイティブな話題になると置いてきぼり感を感じることが多々ありました。周りも、僕たちを製作者としてではなくパパ、ママとして扱うようになりました。そして、そういう対応を寂しく感じながらも「ま、世間的にパパ、ママになるってそういうことだよね」と諦めというか、納得している自分達がいました。

CDを聴くことや、ギターを弾くことから、映画を鑑賞することから知らないうちに距離をとるようになっていました。

 

いやいや、社会的なそういう扱いっておかしいよね?

 

だって僕も奥さんも子どもが生まれただけで、やりたいことや好きなものが変わったわけじゃありません。でも周りからは夢を諦めた人みたいに扱われる。昔、地元の友達に子どもが生まれたことを連絡した際、「音楽は諦めたんだね」と言われてすごく違和感を感じたのを覚えています。

 

いやいや、みんなパパやママを馬鹿にし過ぎだから!

 

そう考えると、自分の中からふつふつと創作意欲が湧き上がってきたのでした。僕のような天邪鬼はレッテル付けが大嫌いです。だから、周りからの自分達に対するこの扱いを見返してやろうと思ったのです。マイナスのエネルギーが僕にとっての原動力なので作品はあっと言う間に出来上がりました。

 

この作品を発表して、ロックは、音楽はパパやママにだってできると見せつけてやろう!そう心に決めています。だから誰よりも僕たちみたいなパパやママに聴いて欲しいです。少し大げさに言えば、この作品を通してパパやママの背中を押してまた夢を追いかけて欲しいと思ってます。

 

夢を追いかけることから離脱したつもりはないし、これからも離脱するつもりはありません。いつだって現役です。

 

 

一人じゃない(堂本剛風)

週明けはめんどくさくてめんどくさくて仕方ないワタナベです。

 

先週からの三連休を使って音源が完成しました。我ながら素晴らしい出来です。今回は奥さんが作詞を担当しているので、共同作業をした感じで思い入れが強いです。今回は共同製作者ということもあり、ボーカルを撮り終えた段階で彼女の感想を聞いて最終の完成ということにしました。

 

奥さんと共同で制作したことで気付くことがありました。

 

今までは自分で作曲して演奏して、自分で作詞して歌って、自分でマスタリングして最終の音の状態を確認していました。一人で徹底的に詰めて自分の満足いくまでできる分、一体何が完成形か分からなくなってしまうことがありました。客観的な視点で作品を見れなくなってしまうのです。でも、今回は違いました。演奏を録音した後に彼女に聴いてもらって、更にボーカルを撮り終えた後にまた聴いてもらうことで僕以外の誰かの基準でも曲を評価できました。そして、なによりもこれが一番の功績ですが、僕の奥さんが作詞を手がけることで、曲に彩りがでました。一人で作詞作曲を手がけると、僕の場合どうしても歌詞が平坦なものになってしまいます。平坦なものというのはどういうことかというと、当たり障りの無い慣らされた歌詞になってしまうということです。僕の性格上、さらっとした表現に終始してしまうのです。しかし、僕の奥さんの場合は僕とは逆にいわゆる土臭い(良い意味で)歌詞を書きます。そしてそれがとても良い歌詞なのです。彼女の歌詞によって、僕には無いエッセンスが曲に注入された気がします。

 

作り終わった僕の感想は、一人でやるより楽しいなってことです。自分以外の誰かの力やアイディアを借りて、時には相談したり考えを言い合ったりすることはより良い作品を産むことにつながると思います。

 

さて、次はジャケットのデザインです。古くからの親友はどんなデザインを考えてくれるのでしょうか。楽しみです。

完璧なものじゃなくて良い

早く帰りたいワタナベです。今日は電車が空いているので座りながら書いています。

 

僕たちの中に刷り込まれている感覚があります。それが今日のタイトルのことです。

 

僕たちは何かを始める時にそれを最高の状態で始めようとします。例えば、不動産屋に就職するなら宅建の資格を取ってからにしようとか、会社を辞めるなら次の就職先が決まってからにしようとか、ライブするならプロ並みに楽器演奏がうまくなってからにしようとか。

 

そんな決まりはないのに、何故か?

 

答えは単純です。何かを始める時には必ず不安がつきまといます。失敗したらどうしよう。2度と立ち上がれなくなったらどうしよう。馬鹿にされたらどうしよう。そんな不安を少しでも既成事実を作ることで払拭しようとしているのです。少しでも完璧に近づくことで、自分の気持ちに対して大丈夫だよって言ってあげたいのです。

 

しかしこの感覚がいつも僕らの足をひっぱりまくります。何故なら逆を言えば完璧な状態にならなければ何かを始めることができないという発想に繋がってしまうからです。ひょっとすると、完璧な状態ではないことを言い訳にして何かを始められない自分を容認しているのかもしれません。金がないから始められないとか言っている人がその良い例です。

 

そもそも、完璧なものである必要なんてありません。この世に存在するすべてのものは完璧ではありません。完璧っていうのは突き詰めば宇宙みたいにキリが無いものだと思うのでそんな状態になれることなんて永遠にありません。転職する時に希望会社の求める条件を満たすまで待ってたら機を逃しますし、ギターを始める時にコードを全部覚えてから始めようとしたら永遠に弾くことに辿りつきません。

 

それに、この世界にあるものは未完成であるからこそ良いと思います。

 

ちょっと話がそれてしまいましたが、結局何を言いたいかというと音楽を作る時にギターテクニックやボーカルテクニックや歌詞が最高である必要は無いよねってことです。昨日僕の奥さんと話した内容をブログにしてみたというわけです。音楽を聴く時に僕ら夫婦は演奏の上手さを聴くことはしないよねって話しました。それは僕たちの考え方が完璧なものじゃなくて良いよねってことだからそうなるのかもしれません。

 

でも、こういう不完全なものを楽しめる感覚の方が生きてて楽だし楽しいなって思うのです。

オエイシスの姿勢

メイベー、ワタナベです。

 

最近youtubeでオアシスというバンドの初期のライブをよく観てます。オアシスはイギリス・マンチェスター出身のギャラガー兄弟が中心のロックバンドです。もう解散していますが、初期の楽曲の素晴らしさといったらこのうえありません。荒削りで素人よりちょっとうまいくらいの演奏力にもかかわらず、リアム・ギャラガーの説得力のあるボーカルとノエル・ギャラガーの天才的なメロディの曲によってイギリスを代表するバンドに成り上がりました。

 

僕は中学〜高校くらいの時に好きでしたが、正直今の方が好きです。

 

それは彼らの初期の姿勢が今の僕にドンピシャでハマるからです。良く言えば直球勝負のビッグマウス、言い方を変えればチンピラさながらの毒舌によって一貫して自分の主張を貫いています。これは主にギャラガー兄弟のことですが、自分の主張をオブラートにくるむことなく発信してきた彼らの楽曲はまさにそういう直球勝負のもので、彼らの姿勢がそれに説得力を与えていました。

 

歳を経ていくと社会での処世術みたいなものが次第に身につきます。こういう場面ではこういう対応が正解みたいなことが分かってきます。しかし、時には自分を殺して言いたいことをグッと我慢のしなければならない時も多々発生します。

 

もう僕はそれが嫌になりました。自分の言いたいことを我慢して生きるなんてなんのために生きているのか分かりません。それに言いたいことを我慢した挙句ストレスでまいっちゃったりしたらそれこそ馬鹿です。

 

そんな時はオアシスを、いや、オエイシスを想い浮かべます。ギャラガー兄弟ならなんて言うかなと。他人からの批判や、誰かに迷惑をかけるとか、この先どうなるかとかいうことは知ったこっちゃないといった無鉄砲さ。

 

そんな傍若無人な姿勢に、今更ながらそこにシビれる、憧れるぅ!なのです。

何でも1人でやらなきゃなんて馬鹿げてる

惰性で仕事をこなすワタナベどす。

 

会社を辞めると決まってからまったくやる気が出ず惰性でのらりくらりと仕事をしています。そうすると自分の仕事や部署の仕事を客観的に見れるようになります。

 

で気がついたのですが、みんな仕事を抱えすぎです。仕事が溢れ返っているにもかかわらず、自分1人で何としようと必死です。それを見て、あー自分もそうだったよねーとか思ってます。そういう点が分かるとつくづく自分のいるべき場所じゃねーなと感じるのです。

 

業務の適性分担をせず旧来のやり方を繰り返し、人と協力して何かをやり遂げる文化もない。結果、業務はどん詰まりとなり僕のような退職者を生むわけです。

 

ひと昔前はどんなことでもできる何でも屋みたいな人材が社会的に価値が高かったのかもしれません。しかし、そういう人は例外なく自分に無理をして何でも屋を演じているに過ぎません。もしくは周りから演じさせられているのです。

 

僕の知っている限りいかなる分野にも秀でている人はいません。人並みよりちょっとだけまんべんなくできる人は知っています。何でも屋はそんな人達のことなのでしょう。

 

でもそれって必要でしょうか?人生の中で何かの問題を解決するのに人の手を借りるのは駄目なのでしょうか?1人でいかなる問題も解決できる能力なんて役に立つのでしょうか?

 

そういう能力は例えば履歴書を書くときくらいにしか役に立ちません。あ、その部分だけは役に立っていますね。

 

僕は1人で何でもできる必要はなくて、人の手を借りまくりたいと思っている人間なので、そんな何でも屋を見ると前時代的だなぁと感じます。人に頼る勇気とそれによってより得られる利益を理解できない人なんだなぁと思います。

 

何でも1人でやらなきゃなんて馬鹿げてるし、傲慢な考え方なのです。

明けました(凄い才能の巻)

おめでとうございます。ワタナベです。

 

年末年始はダラダラと食っちゃ寝食っちゃ寝を繰り返し、3キロ増量しました。特に元旦は朝から浴びるようにお酒を飲んでダラダラしまくりました。素晴らしい年末年始でした。

 

年末に書いた通り、会社を辞めることにしたのでいそいそとCD作成に取り掛かっています。色々あって、新しく曲を作ることにしたので年末年始の休みを利用して宅録しました。

 

今回は新しい試みとして奥さんが作詞を手がけてくれています。この人の歌詞が、非常に良いです。偉そうに褒められる立場ではないのですが、凄く良いのです。

 

歌詞は例えばミスチルとかエレカシみたいに普遍的な言葉を使って書く人と、ブランキーとか川本真琴みたいに独特の言い回しで書く人の二通りがあると思います。僕の奥さんの場合は後者の方で、歌詞を見てみると独特の言い回しというか世界観を感じます。もともと奥さんはインスタとかブログを書いている人なのですが、やはり文章が魅力的です。人を惹きつける魅力を持っています。彼女は大学生の頃映画を作成していたため、台本も書いていました。当時から僕はそれを見るたび、面白い言い回しだな、面白い考え方をしているなと思っていました。

 

僕は基本的に音楽は歌詞よりメロディを聴いてしまう人なので、作曲する時も歌詞はサラッと書いてしまいます。しかし彼女は違います。よく考え、彼女の中で消化して彼女の言葉で書きます。

 

自分の奥さんですが、敢えて言いたいです。

 

凄い才能!と。

 

今回CDを作るにあたって、周りを見てみると僕の周りには才能がある人があまりに多いと気づきました。みんなどう考えても才能あるのに、それを生業とはせずに違う仕事についています。

 

勿体ない!

 

僕が始めたこのCDを作ることに周りを巻き込んで、その才能を存分に発揮してもらいたいです。

 

僕の奥さん然り。楽しみです。