会社に投資していた労力を自分のために使ってみる

久しぶりのブログ記事、ワタナベです!

 

現在の仕事を辞めて自分の好きなこと、音楽をすることに決めました。日々、もしどうにもならなかったらどうしよう?という不安が押し寄せてきますが、ここ最近違った感覚が頭をよぎることが多くなりました。

 

今まで仕事に使ってた労力を自分や家族のために直接投資したら、仕事して得られるのより大きい利益が生まれるのではないか?

 

会社イコールお金をもらう場所なので、その目的のためには自分がやりたくないこともしなければなりません。また、時には仕事ということで自分にとって一銭の価値にもならないことに労力を費やさなければならない時もあります。

 

その労力をそのまますべて自分のやりたいことにスライドできたらすごいパワーだと思うのです。それに、そこに投資した労力は直接自分に見返りとしてかえってきます。こんなすごいことって無いのではないでしょうか?

 

何より知らない誰かのために自分の力を使うのではなく、自分や家族という一人称のために使えるのが嬉しいです。

 

というわけで、僕は先行き不安よりワクワクする気持ちの方が強いのです。

仕事の定義

今日は半休でこれから家に帰るワタナベです。

 

会社を辞めるまであと1カ月となりました。正直どうなるか不安です。しかし、今僕に必要なのは適当な仕事を見つけるために就職活動をすることではありません。

 

僕が本当にやりたいこと、音楽をとことんやってみて、果たしてそれで食べていけるか検証してみる必要があると思っています。

 

そんな遊びみたいなことがお金になるわけがない。遊んでないで、ちゃんと仕事を探しなさい。

 

そんな心の声も聞こえます。

 

しかし!これは立派な就職活動です!音楽をとことんやることがイコール遊びだと決めるのは自分です。これがお金にならないと決めるのも自分です。だから僕は音楽をとことんやってお金を稼ぐことを仕事の定義として捉えています。

 

そう考えると、CDをせっせと作って販売方法を考えている今の状況は立派な就職活動と言えます。音楽家として独立した僕の立派な仕事なのです。

王様が3人と女王様が1人

今日は珍しく仕事を頑張ってクタクタのワタナベです。早く帰ってビールを飲みたいです。

 

我が家には王様が3人と女王様が1人います。

 

1番下の子は1歳なので、言うまでもなく王様です。言うことを聞かないと号泣します。次に7歳の長男も王様です。自分の要求が通らないと暴れます。

 

そして、僕の奥さんは女王様です。いや、最近自分の女王様気質に気づいてきたと言うべきでしょうか。自分のやりたいことをやりたいようにやるようになりました。食べたいものを食べる、好きな時に寝る、入りたい時にアロマのお風呂に入る。

 

僕は今までそんな3人に仕えているつもりでした。

 

でも違いました。

 

僕こそが真の意味で根っからの王様だったのです。自分が一番。人に言うことを聞かせたい。自分の思うようにことを運びたい。人の意見に従うなんてまっぴらごめんだ。それを認識すると僕の今までの人生と生き方がスッキリと説明できるのです。

 

認めるということは時には自分で自分のことを否定しなくてはならない時もあります。僕の場合、自分は良い父親のはずだ、良い夫のはずだという自分の像が壊れることを意味しました。

 

でも仕方ないのです。僕は王様なのです。この世界で一番なのです。

 

それは周りと軋轢を生む生き方なのですが、自分の中では今までの葛藤や苦しみが吹き飛び、実に晴れ晴れとした気分です。

 

王様として生きていくことが僕の生き方で、家族は自分が目をかけてやっている特別な存在ということです。

 

そんな生き方でいいじゃない!

ただ褒められたい

ヤッホー、ワタナベです。

 

先週末、奥さんと喧嘩をしました。お金のことから始まって最終的に今日のタイトルの不満があるという結論になりました。

 

僕の生い立ちを少し書かせてもらいます。僕は東北地方の県で19歳まで生まれ育ちました。僕の実家はいわゆる昔の価値観がある家で、いい大学に行き、いい会社に入るみたいな価値観のもとで育ちました。自分で言うのもなんですが、もともと出来が良かったおかげで小学生の時は秀才扱いされていました。

 

今でも覚えてるのは中学校の最初の中間テストです。150人くらいの中で14番でした。自分では頑張ったなあって思いました。しかし、褒めてもらえませんでした。むしろ怒られました。一つ上の学年のいとこはすごく頭が良くて3番だったと聞いていたからです。

 

ここから僕の価値観はある程度決まったと言えます。

 

すんげーめちゃんこ頑張んないと褒めてもらえない。

 

中学校のテストは僕にとって自分の身を削って絶えず120パーセント頑張ってる状態でした。初めて3番をとった時、ようやく褒められてホッとしたのと同時に次のテストの結果が怖くなったのを覚えています。

 

僕の120パーセントで頑張る癖は、勉強以外のことにおいても当てはまります。

 

人付き合いや、仕事、すべてにおいて120パーセントでやってきました。だからもう頑張れなくなったのです。すごく頑張っているのだからできて当たり前。まわりは僕の120パーセントなんて知りません。褒めてなんかくれません。次第に僕の心は消耗していったというわけです。

 

ただ褒められたいのです。自分以外の誰かに。手放しで。それが削ってきた自分を修復する薬になるのです。

 

それにようやく気づいたのは、なんと先週の金曜日でした。今まで37年間も生きてきたのに、それまで自分ですら120パーセントでやってたことに気づかなかったのです。

 

なんて健気で可愛いそうな自分。

 

そう思うと自然と涙が出てくるのでした。

〜になれる36の習慣

間違えて残業してしまったワタナベです。自分の時間を無駄にしたな。

 

今日のタイトル、〜のところには色々入ります。例えば「デキる人」とか、「モテる人」とか、「金持ち」とか。こういうタイトルの本や記事をよく目にします。そしていつも思います。

 

いやいや、習慣多くね?と。

 

こんだけやらないとなりたいものになれないのでしょうか?そして、これだけやればなりたいものになれるんでしょうか?

 

そりゃこんだけ実践できればそうなれるかもしれませんね。それに一つでも実践できなかったら、なりたいものになれなかった時に言い訳できます。一つ実践できない習慣があったから、なりたいものになれないんだ。って。

 

そして、こういうタイトルの記事を目にするたびにこう思います。

 

筆者は自分に逃げ道を作ってる人だな。と。

 

こんだけ習慣あげとけば、全部実践したら多分なりたいものになれるし、なれなかったときに文句言われてもあなたにはこの習慣が足りないって言えますからね。

 

読む気がしません。僕は逃げ道を用意しているような人の意見は大嫌いで聞く価値も無いと思うのです。

 

だから僕は間違ってたって不完全だって、自信を持って考えを発信していきたいと思います。

 

やりたいことの本気をだしたらどうなるのか?

わんばんこんばんは。ワタナベです。

 

ズドンとタイトルを考えてみます。すごく長い間考えていることです。

 

自分がやりたいことの本気をだしたらどうなるのか?

 

・会社を今すぐに辞めたい。しかも後先考えずに。

・朝から晩まで家のことは一切せずにギター弾いたり、音楽聴いたりして過ごしたい。

・働きたくない。死ぬまで。

・好きなものを何も考えずに買いまくりたい。

 

このようなことを実行したらどうなるんでしょうか?ただ実行するだけではありません。本気で実行するのです。本気で。それは他のどんな弊害がでようとも、やりたいことだけをするということです。

 

よく世間に「やりたいことをやればいい」ということをさも簡単に言う人がいます。そういう類の啓発本にもそういうことが書いてあります。

 

しかし、実際のところ手放しでそんなことできるはずがありません。なぜなら、そうできないのは自分以外の誰かに対して責任を負っているからです。もっと言うと、それは家族です。自分のことを頼りにしている親、妻、子どもたちのことを考えるとそんな簡単に実行できるわけありません。そんな責任がある人、主にそれは働いている男性が当てはまるのですが、そういう人に「自分のやりたいことをやらなきゃ!」みたいなことを言ってのけるヤツは腹がたちます。あまりにも無神経すぎます。だから、僕はそういうヤツをこれっぽっちも信用しません。

 

僕らは生活しています。そして家族で生活するということは自分以外の誰かに対して責任を負うということです。つまり、家族で生活している以上、やりたいことで本気を出すことなど絶対にできないのです。

 

だったら家族のことなんか切り捨てればいいじゃんとか言う人がいますが、そもそもそんなことができるんだったらやりたいことを本気でできているのでここで書いたりしません。

 

家族のことを大切に思うからこそ、やりたいことは本気でできないということを認識しなければいけないと思うのです。

 

やりたいことができない理由を誰かのせいにしている?とんでもない!

 

やりたいことを本気でできないのは自分が他の誰かを大切に思っている証拠です。誇らしく思ったっていいと思うのです。

 

 

 

 

ネットの記事は不特定多数の総意か?②

どうもどうもどうも!ワタナベでっす!

 

①からの続き

僕は最近ネットでこんな記事を見ました。

 

「本当に優しい人がしないこと」

 

内容はタイトルのまんまで、優しいと言える人がしていないことが書いてありました。その中にこんなことが書いてました。

 

「レジで財布を広げてお金やカードを確認すること。本当に優しい人は後ろに並んでる人や店員のことを考えるのでそんなことはしない。」

 

嘘でしょ?それって優しさを測定する尺度になるわけ?

 

僕は思いました。世間に出版されて売れている本や、アクセス数が多いネットの記事だからといって、必ずしもそれが不特定多数の総意ではない。むしろそれはそれぞれの「書き手」個人の価値観が反映されたものにすぎない。その価値観が先に流布してしまったからそれを皆が「そういうもの」だという当たり前のものとして認識してしまっているのです。

 

つまりいわゆる一般的と思われている考え方も、そもそもは誰かの価値観がもとになっているにすぎません。ただ単にそれが最初の「共通のルール」と認識されてしまっただけなのです。

 

だから、自分の考えや意見、思想がそれと真逆であっても別にいいじゃん!って思うのです。逆になんでみんな甘んじて人の決めたルールを受け入れているわけ?と思います。

 

これからも世間の一般的と考えられている常識に惑わされずに生きて行こうというお話でした。