負の出来事の断ち切り方

ザ・ワタナベです。最近急激に寒くなって朝起きるのが辛いです。

 

僕はいつも心を負の出来事に支配されます。悲しいことがあったり、嫌なことがあったりするといつまでもそのことにとらわれてしまいます。他の沢山の楽しいことも、たった1つの負の出来事に帳消しにされます。そのたった1つの負の出来事が僕の心を苦しめるのです。

 

人の中には、悲しい出来事や嫌な出来事をスッパリと忘れることのできる人もいます。僕の母親なんかはその典型的なタイプで、一晩寝れば全て忘れます。でも、僕にはなかなかそうはできません。どうしても心を支配されてしまうのです。

 

そんな時、こう考えるようにしています。

 

1日24時間の中で、その悲しい出来事や嫌な出来事は具体的にどのくらいの時間を費やしたのか?具体的な時間を計算してみるのです。

 

大概はせいぜい30分とかそこらです。そういった出来事は起こった時間は短くても、負のエネルギーを沢山持っているのでいつまでも僕を苦しめるのです。しかし、1日24時間の中の30分の出来事にその日を決められてしまうのは癪だと思います。30分嫌な時間があったとしても、残りの23時間30分はそうではないのです。むしろ楽しい時間かもしれません。そう考えると、そのことを考えたりそのことに苦しむのは非常に無駄なことに思えます。過ぎ去った出来事に対して自分の時間を割くことほど無駄なことはないからです。良く言うように過去は変えられないのです。

 

であればそういった負の出来事は僕の人生の時間を費やすには値しないはずです。

 

起きてしまったことは仕方ない。それに支配されるか、自由でいるかで楽しく生きられるか決まると考えています。

 

大丈夫だと言ってあげたい

またもやハワイを思いだしているワタナベことワタナベです。思い出すだけで顔がニヤけるほど素晴らしい思い出となっています。

 

会社の後輩が見ていてキツイです。なんでも一人で抱えてしまっていて、人に頼めない感じでパンクしています。僕は直接彼に仕事をふる立場なのですが、「仕事が溢れたら必ず言うように」と伝えました。今朝、初めて彼から仕事の分担を打診されました。毎日のように溢れている仕事で彼の顔から元気が無くなっていくのを見ていた立場としては、とりあえず良かったなと思いました。一人で抱えすぎるとキツくなるということが分かってくれたのではと思います。

 

僕はその後輩を見るといつも感じることがあります。それは間違えることを凄まじく恐れているということです。そのせいで仕事のスピードにブレーキがかかってしまい溢れてしまうのです。完璧な書類を作ろうと頑張っているのは分かりますが、まるで間違えることに罪悪感を感じているがごとくなのです。僕の認識では彼の能力値ははかなり高いと思います。それなのに間違いを怖れるあまり決断力が不足してしまっています。

 

ひょっとしたら彼は、間違えることを怖れているというより、間違えて怒られることを怖れているのかもしれません。もしくは、間違いをおこすと自己評価が地の底まで落下してしまう人なのかもしれません。

 

だとしたら僕は大丈夫と言ってあげたいです。

 

その気持ちはすごく良く分かります。以前も、そして今も少しそうだから。

 

そういう気持ちは結局自分でなんとか解決しなくてはならないのですが、その手伝いというか少しでも力になれたらなと思うのです。

いつもトラブルを探している

雨が嫌いなのに雨男のワタナベです。ハワイが懐かしいです。また行きたくて仕方ないです。

 

自分の行動のクセというのがあります。きっと誰もが持っているものだと思います。

 

僕の場合は今日のブログタイトルにもあるトラブルを探してしまうということです。つまり自分から困難な状況に自分を置いてしまうのです。無意識のうちにそうしてしまいます。

 

例えば

・仕事の案件を深く追求しすぎて解決できなくなってしまう

・喧嘩になりそうな時、回避するための行動をとらず、むしろ逆のことをしてしまう

・余計な一言を言って波風をたててしまう

などです。

 

自分でも不思議ですが、多分僕はトラブルメーカーの気があるようです。ある意味負の才能です。物事をめんどくさくしたり、人を怒らせたりする才能を持っているのです。

 

最近僕はこのことに気づきました。自分の行動のクセ、これを見つめるのは結構重要なことではないでしょうか。

 

トラブルを探すクセがある、ということは逆を言えば僕が普段とらない行動を意識してとるようにすればトラブルを避けられるということです。

 

しかしこれがなかなか難しい。今まで何年もの間に築いてしまった考え方や行動の仕方を崩すことは自分の中で抵抗があります。時にはストレスをも伴います。

 

ではなぜそこまで抵抗を感じるのか?

 

それには僕の行動の基礎となっている思考方法を検証してみる必要があります。色々考えてみたところ、どうやら僕の場合は度を越した負けず嫌いの性格が起因しているようです。今まで僕がトラブルになったことを考えると、いつもそこにはこの「負けず嫌い感」があった気がします。自分に分からないはずがないとか、人に謝るのが嫌だとか、自分の意見をアピールして人と違う人として見られたいとかいった類の感情はすべてこの「負けず嫌い感」で説明できます。

 

この「負けず嫌い感」は僕にとってプラスとマイナス、どちらになっているのでしょうか。僕の考えだと、ほんのわずかですがマイナスの方が上です。だからといってこの感情をまったく無視してしまうと、僕にプラスの部分まで無くなってしまいます。必要なのは適度に付き合っていくことだと思っています。今まで僕はこの「負けず嫌い感」に振り回されていることがありました。一度この感情が湧き上がると自分にとっての利益など考えることもなくトラブルに向かって行っていました。

 

そこで最近はこの「負けず嫌い感」を感じたらワンクッション置くようにしています。クールダウンして自分にとっての利益を考えてみるのです。もし不利益を被ることになりそうなら違う行動をとるように心がけます。自分にとって有益か有害かを天秤にかけて自分のとる行動を決めるのです。少しひいて自分を見ることでトラブルメーカーからの脱却を目指しています。

マウンティングの行き着く先

はー、ワタナベです。12月になってから残業残業でクタクタの助です。クリスマスと正月が待ち遠しいです。

 

マウンティングという言葉をご存知でしょうか?人より自分の方が優位に立つために、他人に対して横暴な態度をとったり馬鹿にしたりするという行為のことです。

 

生活しているとふとした場面でその片鱗を感じることがあります。例えば道を譲らない人に出会ったり、友達でもないのにタメ口で話す人に出会ったり、聞いてもいないのに知識を披露してくる人に出会ったり等です。実は僕自身も過去そういうタイプの人間でした。何かにつけて、無駄に人と張り合っていました。元々僕自身が凄まじく負けず嫌いな性格のため、その行為に拍車をかけていました。そしてそんな自分のことを自慢げに思っていました。こんな態度をとれる自分って凄いと本気で思っていたのです。

 

でも、ある時気付いたのです。マウンティング行為を続けた先には争いの連鎖と苦痛の日々が待っていることに。

 

そもそもマウンティングにはきりがありません。一回マウンティングしたら、その先も出会う人出会う人すべてに対してその行為をし続けなければ優位に立つことはできません。当然出会うすべての人がマウンティングに対して服従するわけではなく、抵抗をうけることがあります。そうなると相手を従わせるために更に誇大に振舞わなければなりません。それはとても疲れるしんどいことです。それに加えて、マウンティングするには相手を選ぶことが必要となります。誰に対してもできるわけではありません。極端な話、自分より強そうな人間に対してはできませんし、権力があるような人間に対してもできません。つまり、人を見て態度を変えるということなのですが、それはとても情けないことだと僕は思いました。自分より弱いと思う人には強くでて、自分より強いと思う人には強くでれないなんてカッコ悪すぎです。

 

それに気づいた時、マウンティングしたところでロクなことが無いんだなと分かりました。マウンティングしてくる人に出会うと、情けないやつだなと思うようになりました。

 

なので、最近は人に道を譲りますし、人にはなるべき敬意をもって接しますし、無駄に知識をひけらかすのもやめました。そうすることでマウンティングの輪から少しずつ抜けていきたいのです。無駄な争いは避けていきたいのです。

 

僕の奥さんが過去に僕に言った言葉があります。

 

ジャッキー・チェンはここぞという時しか戦わない」

 

ジャッキーみたいに強い人は無用な争いは避け、ここぞという時だけ争いに身を投じます。

あちらこちらで争ってばかりいる、マウンティングしてるような人はジャッキー・チェンのようには永遠になれないのです。

 

 

両親は大切に

どうも、ワタナベです。年末に向けてイラつく感じで忙しくなってきました。本当に嫌で嫌で仕方ないです。

 

僕は30歳くらいの時に父をガンで亡くしました。父はその5年くらい前に倒れて療養していました。

 

僕は当時バンドで成功しようと頑張っていたので就職してませんでした。しかし、父が倒れたことでしっかりしないとなと思い就職活動をし不動産屋に勤めました。慣れない社会人としての立ち振る舞いのことでとても苦しみました。上司に対する敬語の使い方、案件への対処の仕方、対人関係の仕方などなど‥。父は倒れてから話すこともままならないようになっていたため、そういったことの相談はできませんでした。一度母に相談したことがありましたが、イマイチでした。結果として、僕はその会社をたったの2ヶ月で辞めました。

 

当時も、そして今の会社に勤めていても感じることがあります。それは「こんな時、父だったらどんな風に対応するのだろうか」ということです。

 

僕は「うまくやるため」の解決策を父に聞きたいわけではありません。僕の性格は父に似ています。神経質で妥協ができず、繊細で不器用。だからこそ、父なら僕が共感できる「答え」を持っていた気がするのです。「答え」は「うまくやるため」の解決策でなくてもよくて、つまりそれは「それは俺だったらできないな」とか「そういうこで失敗したことがあるよ」といった種類のものでも良いのです。自分に似ている父だからこそ、僕にとって納得できる「答え」を与えてくれたのではと思うのです。

 

父の仕事のやり方や、社会人としての振る舞い方について僕は詳しく知りません。母に聞いたエピソードなんかをもとに紐解いていくしかありません。そんな時、気づかないうちに父を手本にしようとしている自分に気づきます。生きているうちにもう少し男としての、父親としての生き方みたいのを聞いとけば良かったなと後悔しています。

 

母はまだ元気です。関係は良好なので、結構色々話します。いつかいなくなってしまうその前に彼女の考え方を聞いておかなきゃなと最近感じています。

 

なりたい自分は本当の自分

アロハのハ。仕事でクタクタのワタナベです。

 

毎日のようにハワイのことを考えます。また行きたくて行きたくて仕方ないです。年末ジャンボ、当たれ!

 

人生を何年も生きていると、色々な人に出会います。最近思うのは、柔らかい人っていいなってことです。例えば誰に対してもあいさつできたり、自分が悪いと思ったら素直に謝ったり、人に対して優しくできたりする人。

 

こんな人になれたらと思う反面、いつも「あれ?自分だってそうだったんじゃなかったっけ?」と思います。思えば今の会社に入社したばかりのころは、誰にでもあいさつしてたし、素直に謝れたし、人に優しく接していたのです。なのに年月が過ぎるにつれ、自分の性格が忙しさのせいでギスギスしたものになってしまったのが分かりました。

 

きっとみんなそうなんです。もとからギスギスした人なんて滅多にいません。忙しさで心や体力をすり減らし、それをフォローするすべがないのでそうなってしまうのです。フォローというのはつまり自分を大切に扱ってもらうことです。自分を大切にしてもらえない人は、他人を大切にはできません。仕事の忙しさで疲れきった心と体は自分一人ではフォローしきれません。自分以外の他の誰かからの優しさが必要なのです。

 

僕の会社の辞めてしまった以前の課長は、性格的にギスギスした人でした。だからみんな腫れ物に触るように接していました。僕もそうでした。でも、今は彼の心が分かります。会社はその課長に負荷をかけすぎていたのです。案件のほとんどを丸投げしていました。それでいて、誰からも優しくされていませんでした。きっと彼のもとの性格が真面目だったためそれをすべて引き受け、いっぱいいっぱいになってしまったのでしょう。それが彼の性格をギスギスしたものにしていたのです。辞めて正解だったと思います。

 

よく忙しい時や切羽詰まった時の性格が本当の性格だみたいなことを言う人がいます。僕はまったくそう思いません。そんな状態の時にでてくる性格なんて、その人の憔悴しきった心の一部分でしかないはずです。逆にそんな時にも柔らかい性格のままだったとしたら、その人は自分の気持ちに嘘をつきまくって生きている人だと思います。ヤバイです。

 

だから、僕達がこんな人になれたらって思う人こそ実は本当の自分なのです。忙しさのせいで自分が昔そうであったことすら思い出せなくなっているだけなのです。

ギターヒーローの条件

アロハ!いまだにハワイの余韻に浸っているワタナベです。また行きたいです。

 

突然も突然ですが、僕の人生におけるギターヒーローアベフトシジョン・スクワイアです。

 

この2人については以前ブログで書いたことがありますが、今回は僕の思うギターヒーローの条件について書こうと思います。

 

条件その1

ギターの音やフレージングが良い。これはまあ当たり前です。逆を言えば、これが良ければテクニックの有無は気にしません。

 

条件その2

見た目がカッコよい。どんなにギターが上手くても、ダサい服を着ていたり、ダサいギターを使っていたり、ダサい髪型をしていたらダメです。

 

条件その3

ギターに対する姿勢を超えたところで共感できる何かを持っている。例えば、独特の考え方であったり、言い回しであっあり、人生に対する信念であったり、とにかく自分が共感できる何かを持っていることです。

 

この3条件を備えて初めて僕にとってのギターヒーローとなります。なので、僕はいわゆる世間的な評価の高いギターヒーローに対して特に感じるものはありません。勿論、その人達のことを尊敬している部分はありますし、好きな部分もあります。しかし、それらのギターヒーローは僕のギターヒーロー2人には遠く及ばないのです。(僕にとっての話です)

 

昔何かの雑誌でザ・スミスのギタリストのジョニー・マーが同じようなことを言っていました。そうだよね!そうだよね!ってすごく共感したのを覚えています。

 

ちなみに僕はスミスもジョニー・マーもそこまで好きなわけではありません。