ただ褒められたい

ヤッホー、ワタナベです。

 

先週末、奥さんと喧嘩をしました。お金のことから始まって最終的に今日のタイトルの不満があるという結論になりました。

 

僕の生い立ちを少し書かせてもらいます。僕は東北地方の県で19歳まで生まれ育ちました。僕の実家はいわゆる昔の価値観がある家で、いい大学に行き、いい会社に入るみたいな価値観のもとで育ちました。自分で言うのもなんですが、もともと出来が良かったおかげで小学生の時は秀才扱いされていました。

 

今でも覚えてるのは中学校の最初の中間テストです。150人くらいの中で14番でした。自分では頑張ったなあって思いました。しかし、褒めてもらえませんでした。むしろ怒られました。一つ上の学年のいとこはすごく頭が良くて3番だったと聞いていたからです。

 

ここから僕の価値観はある程度決まったと言えます。

 

すんげーめちゃんこ頑張んないと褒めてもらえない。

 

中学校のテストは僕にとって自分の身を削って絶えず120パーセント頑張ってる状態でした。初めて3番をとった時、ようやく褒められてホッとしたのと同時に次のテストの結果が怖くなったのを覚えています。

 

僕の120パーセントで頑張る癖は、勉強以外のことにおいても当てはまります。

 

人付き合いや、仕事、すべてにおいて120パーセントでやってきました。だからもう頑張れなくなったのです。すごく頑張っているのだからできて当たり前。まわりは僕の120パーセントなんて知りません。褒めてなんかくれません。次第に僕の心は消耗していったというわけです。

 

ただ褒められたいのです。自分以外の誰かに。手放しで。それが削ってきた自分を修復する薬になるのです。

 

それにようやく気づいたのは、なんと先週の金曜日でした。今まで37年間も生きてきたのに、それまで自分ですら120パーセントでやってたことに気づかなかったのです。

 

なんて健気で可愛いそうな自分。

 

そう思うと自然と涙が出てくるのでした。

〜になれる36の習慣

間違えて残業してしまったワタナベです。自分の時間を無駄にしたな。

 

今日のタイトル、〜のところには色々入ります。例えば「デキる人」とか、「モテる人」とか、「金持ち」とか。こういうタイトルの本や記事をよく目にします。そしていつも思います。

 

いやいや、習慣多くね?と。

 

こんだけやらないとなりたいものになれないのでしょうか?そして、これだけやればなりたいものになれるんでしょうか?

 

そりゃこんだけ実践できればそうなれるかもしれませんね。それに一つでも実践できなかったら、なりたいものになれなかった時に言い訳できます。一つ実践できない習慣があったから、なりたいものになれないんだ。って。

 

そして、こういうタイトルの記事を目にするたびにこう思います。

 

筆者は自分に逃げ道を作ってる人だな。と。

 

こんだけ習慣あげとけば、全部実践したら多分なりたいものになれるし、なれなかったときに文句言われてもあなたにはこの習慣が足りないって言えますからね。

 

読む気がしません。僕は逃げ道を用意しているような人の意見は大嫌いで聞く価値も無いと思うのです。

 

だから僕は間違ってたって不完全だって、自信を持って考えを発信していきたいと思います。

 

やりたいことの本気をだしたらどうなるのか?

わんばんこんばんは。ワタナベです。

 

ズドンとタイトルを考えてみます。すごく長い間考えていることです。

 

自分がやりたいことの本気をだしたらどうなるのか?

 

・会社を今すぐに辞めたい。しかも後先考えずに。

・朝から晩まで家のことは一切せずにギター弾いたり、音楽聴いたりして過ごしたい。

・働きたくない。死ぬまで。

・好きなものを何も考えずに買いまくりたい。

 

このようなことを実行したらどうなるんでしょうか?ただ実行するだけではありません。本気で実行するのです。本気で。それは他のどんな弊害がでようとも、やりたいことだけをするということです。

 

よく世間に「やりたいことをやればいい」ということをさも簡単に言う人がいます。そういう類の啓発本にもそういうことが書いてあります。

 

しかし、実際のところ手放しでそんなことできるはずがありません。なぜなら、そうできないのは自分以外の誰かに対して責任を負っているからです。もっと言うと、それは家族です。自分のことを頼りにしている親、妻、子どもたちのことを考えるとそんな簡単に実行できるわけありません。そんな責任がある人、主にそれは働いている男性が当てはまるのですが、そういう人に「自分のやりたいことをやらなきゃ!」みたいなことを言ってのけるヤツは腹がたちます。あまりにも無神経すぎます。だから、僕はそういうヤツをこれっぽっちも信用しません。

 

僕らは生活しています。そして家族で生活するということは自分以外の誰かに対して責任を負うということです。つまり、家族で生活している以上、やりたいことで本気を出すことなど絶対にできないのです。

 

だったら家族のことなんか切り捨てればいいじゃんとか言う人がいますが、そもそもそんなことができるんだったらやりたいことを本気でできているのでここで書いたりしません。

 

家族のことを大切に思うからこそ、やりたいことは本気でできないということを認識しなければいけないと思うのです。

 

やりたいことができない理由を誰かのせいにしている?とんでもない!

 

やりたいことを本気でできないのは自分が他の誰かを大切に思っている証拠です。誇らしく思ったっていいと思うのです。

 

 

 

 

ネットの記事は不特定多数の総意か?②

どうもどうもどうも!ワタナベでっす!

 

①からの続き

僕は最近ネットでこんな記事を見ました。

 

「本当に優しい人がしないこと」

 

内容はタイトルのまんまで、優しいと言える人がしていないことが書いてありました。その中にこんなことが書いてました。

 

「レジで財布を広げてお金やカードを確認すること。本当に優しい人は後ろに並んでる人や店員のことを考えるのでそんなことはしない。」

 

嘘でしょ?それって優しさを測定する尺度になるわけ?

 

僕は思いました。世間に出版されて売れている本や、アクセス数が多いネットの記事だからといって、必ずしもそれが不特定多数の総意ではない。むしろそれはそれぞれの「書き手」個人の価値観が反映されたものにすぎない。その価値観が先に流布してしまったからそれを皆が「そういうもの」だという当たり前のものとして認識してしまっているのです。

 

つまりいわゆる一般的と思われている考え方も、そもそもは誰かの価値観がもとになっているにすぎません。ただ単にそれが最初の「共通のルール」と認識されてしまっただけなのです。

 

だから、自分の考えや意見、思想がそれと真逆であっても別にいいじゃん!って思うのです。逆になんでみんな甘んじて人の決めたルールを受け入れているわけ?と思います。

 

これからも世間の一般的と考えられている常識に惑わされずに生きて行こうというお話でした。

 

 

ネットの記事は不特定多数の総意か?①

どうも、どうもどうも。ワタナベです。

 

僕は以前、悩みがあった時によく自己啓発本を読んでいました。仕事での悩み、育児での悩み、人間関係の悩み、それぞれその解決方法なんかが記されていたりしました。今は一切読みません。

 

自分が辛くなるだけだったから。

 

そういう本に書かれている内容は、だいたい僕が日常の中で実践していることと真逆の方法論だったり真逆の考え方ばっかりでした。書き方こそ違えど異口同音でした。読めば読むほど、できていない自分がダメに思えてしまうのでした。滅入ってしまうのです。ポジティブな人ならそれを受け止めて建設的に行動できると思いますが、あいにく僕はそういうタイプではありません。

 

なんで自分の貴重な時間を使って、わざわざ自分を否定するような本を読まなきゃならないのだろうか?

 

そう考えて読むのをやめました。

 

そもそも、そういった本に書いてある内容は本当に普遍的で万人に共通の方法なのでしょうか?勿論答えはノーですが、それならこういった本はどんな人を対象として書かれているのでしょうか?

 

答えは簡単で、共通の思考を共有する不特定多数の誰かです。10人の目の前にりんごを置いた時に、それがりんごだと答える9人に向けて書かれているわけで、それをみかんだと答える1人に向けては書かれていません。共通の価値観、常識、考え方をしているであろうこの世の中の不特定多数の誰かがその対象です。だから、僕のような残り1人に入ってしまう人間にとっては屁の役にもたちません。

 

そして僕は考えるのです。

 

それって本当にこの世の中の不特定多数に通じる方法なの?と。

 

②に続く

やりたいことをするための試練がまた一つ

どうもワタナベです。

 

CD作成のために着々と準備を進めています。ここで問題が発生しました。ジャケットデザインを頼んでいた友人から作成の目処がたたないと言われました。これについて友人を一切責める気はありません。タイミングが合わなかったのです。彼に依頼する適切なタイミングではなかったのです。しかし、そう思ってはいてもやはり困りました。

 

やりたいことを実現しようとすると神様が試してきます。これもその一つです。

 

がっかりしているは暇はありません。次の手を考えて前に進まなければ!

 

あ!僕の長男の絵のセンスが秀逸だったな‥。

声に出して自分を褒めてあげる

こにゃにゃちは。今日も16時で退社のワタナベです。今日は暖かくて気持ちの良い陽気でした。

 

会社を辞めると決めた時、僕の心は疲れ切っていました。終わりの無い案件の対応と、顧客の対応、そして職場環境の劣悪さ。

 

こういった業務の日々を送っていると、心は削られエネルギーを失っていきます。自分に対する自信や評価も無くなっていきます。職場内で労いの言葉があったり、きちんと褒められたりしていたらそれによってエネルギーを補充をすることができます。しかし、僕の現在の職場(部署)でそれは期待できませんでした。仕事量が多すぎてみんな自分の仕事で手一杯なのです。

 

あまりに心が憔悴しているので、この間自分で自分を労ってみました。

 

家族が寝た後、洗い物をしている時に小さい声ですが声に出して自分を褒めてあげました。

 

「ワタナベは頑張っているよ。本当にすごいと思う。誰にも頼らず、良くここまでやってきたね。本当にお疲れ様。誰にもワタナベを責めることなんてできない。本当に良く頑張ってるよ。」

 

すると、不意に泣きそうになりました。自分でもびっくりしました。

 

自分の心はこんなに張り詰めていたんだな。疲れきっていたんだな。優しい言葉をかけてもらいたかったんだな。

 

心が安らかになるのを感じました。

 

僕は頑張ってる。誰がなんと言おうとも。

 

きっと心の中で自分を褒めている人はたくさんいるでしょう。でも、声に出すとまるで自分以外の誰かが自分を褒めてくれている感覚になります。

 

声に出して自分を褒めてあげること、オススメです。